2023年11月3日
ゲンロン主催の連続イベント、若手研究者を応援するシリーズ「学問のミライ」。第5回(11月3日金・祝)のゲストは哲学研究者・批評家の森脇透青。イベントのタイトルは「『意味の時代』に批評はなにができるか── 『訂正可能性の哲学』と哲学・批評のミライ」。ゲンロンの院生スタッフから青山俊之・ 國安孝具・栁田詩織の三人も加わり、若手から見た『訂正可能性の哲学』を議論しました。イベント会場では『近代体操』創刊号を販売させていただきました。
アーカイブ配信はシラスで視聴可能です。
https://shirasu.io/t/genron/c/genron/p/20231103
イベント前に森脇透青からのコメント
私の関心は、ひとが何かを語ること、何かを書くこと、ある主体が「意味」を伝達したり作り出したりするプロセスにあります。現代は、かけがえのない「私」を語ることに強い意義が見出されている時代です。だからこそ私は、その「語り」のプロセスそのものを──そしてその「私」の発生と構造そのものを──もう一度哲学的に考えなおさなければならないと思っています(それは「私」を否定することではありません)。私とは何か(誰か)。哲学史のメインテーマとも言えるこの問いは、現代でも現象学、解釈学、文芸批評、あるいは精神分析といった営為を通じて彫琢されてきました。
私はジャック・デリダというフランスの思想家を中心として、哲学を研究してきました。現在はデリダにおける「秘密」という概念に着目して博士論文を準備しており、それも大雑把に言えばこうした関心から出発しています。しかし、私はそうした主題を「研究」の範疇でのみ考えることに、一種の息苦しさというか不義理のようなものを感じてきました。それは研究がつらいということではありません。私は研究の場所に恵まれており、研究制度にも順応できるほうだと思います。けれどもそこに安住することに、私は何か責任を果たせていないような、何かが欠落しているような、途方もない不安を感じもするのです。その懸念を私は忘れることができませんでした。今年上梓した共著『ジャック・デリダ「差延」を読む』(読書人)の私の文体には、その迷いや戸惑いが現れているかもしれません。
そのような不安の一つの理由は、私が東浩紀さんの著作から批評に触れ、また『存在論的、郵便的』からデリダを読みはじめたことにあるでしょう。東は(そしてそもそもデリダも)、既存の制度のあいだを動き回って撹乱してきた実践者だった。私が影響を受けてきた哲学者や批評家や活動家には、何かそういうパワーがある。それに応答しなければならないのではないか。そこで私はとにかく、自分の力で批評活動をはじめなければいけないという切迫に駆られたのです。批評とは、私にとって現代に対するより直接的で批判的な考察が可能になる場です。私が主宰する『近代体操』という同人誌はそのひとつの実践だと考えています。
したがって私は研究者としては一種の「不良」であるかもしれず、「学問のミライ」というタイトルにはいささか気後れを感じています。学問とは何だろうか……。それに私はイベントを企画する側はこなしてきましたが、ゲストには慣れていません。けれども、こうした私の二重化した書き方=生き方が(かつて柄谷行人は「書くことは生きること」だ、と言いました)、「学問のミライ」になにかしら寄与できればと思い、恥ずかしながら登壇させていただくことにしました。当日を楽しみにしています。