読書会書籍一覧

近代体操は2021年4月より、1年間に渡って「空間/場所」をテーマに読書会を行なってきました。読書会で取り上げた書籍をご紹介します。

1. ル・コルビュジエ『建築をめざして』
ル・コルビュジエ『建築をめざして』(吉阪隆正訳、鹿島出版会、1969年〔原著1923年〕)

近代建築の父ル・コルビュジエが自身の理論をまとめた書である。ル・コルビュジエの建築は、「住宅は住む機械である」というキーワードで知られる通り、建築の合理性・利便性・効率性を重視する。こうした姿勢は、戦後の住宅政策の後ろ盾になったとも言われ(大量生産可能な家の発明⇨労働者にローンを組ませ一生の労働を強いるマイホーム主義の成立)、批判的に考察される。だが、この際、合理性や利便性といった概念は、批判されるにせよ評価されるにせよ、それ自体が再考されているわけではない。少なくともコルビュジェの建築あるいはその理論的背景を理解するためには、真・善・美にかかわる彼の哲学的前提を踏まえなくてはならない(その前提はたとえば「始源の⾃然法は、単純かつ少数である。道徳法則は単純かつ少数である」という言葉に見られるだろう)。彼の「合理性」あるいは経済性——家とはローコストで大量生産される既製品でなければならない、したがって装飾は排されねばならない——は、「モダニズム」の精神のうちで育まれたこうした枠組みを介さずに受け止められるべきではない。したがってコルビュジエ的な機能主義に対する単純な「疎外論的」批判はひとまず無効であろう。コルビュジエにとって近代資本制のシステムは、人間本性を疎外するものではなく、むしろ自然の本質を開示するもの、そして何より人間を過去の因習から解放するものだった。コルビュジエのピュリスム、あるいは同時期の思想家たちが一定以上共有していたこのモダニズムの謎めいた両義性を無視して、モダニズムを批判することなど誰にもできない。(担当・左藤)

2. 石川義正『錯乱の日本文学 建築/小説をめざして』
石川義正『錯乱の日本文学 建築/小説をめざして』(航思社、2016年)

戦後から現代にかけての日本の代表的な建築家と小説家を並べて論じた評論集。「建築/小説」という本書の議論を支えているのは、両分野でいずれも到達目標としての「モダニズム」がある時期をもって破産してしまい、以降はあらゆる文化的な産物が資本と国家の作り出す「総力戦体制」に飲み込まれてしまったという認識である。「錯乱」という言葉自体、資本の暴走が作り出したニューヨークの摩天楼にコルビュジェのモダニズム美学の破産を見た、レム・コールハース『錯乱のニューヨーク』に依っている。コルビュジェの『建築をめざして』ならぬ「建築/小説をめざして」と言う石川は、二つの分野が資本の力の下で重なり合うことをアイロニカルに肯定するのである。(担当・松田)

3. ティム・インゴルド『メイキング 人類学・考古学・芸術・建築』
ティム・インゴルド『メイキング 人類学・考古学・芸術・建築』(左右社、2017年〔原著2013年〕)

人類学者のインゴルドが、自らのフィールドワークの経験や、哲学・考古学・芸術・建築といった様々な領域を参照しながら、「つくること」について考察した一冊。近年ひろく注目を集めるインゴルドは人類学を、民族誌の完成を目指す学問ではなく、「世界に入っていき、人々とともにする哲学」だと定義づけている。そこで目指されるのは、客観的な観察というよりも、参与する主体の存在論的な変容だ(cf.人類学の存在論的転回)。人は、デザイン/素材(形相/質料)の二項を切り分けて考えてきたが、実際の「つくること」はこの二項どちらにも還元することができないプロセスであり、そこに主体の変容が存在する。(担当・安永)

4. マルク・オジェ『非-場所』
マルク・オジェ『非-場所』(水声社、2017年〔原著1992年〕)

人類学は「よそ」の研究から「ここ」研究へ。コートジボワールやトーゴでの調査に基づいて独自の理論を展開してきたフランスの人類学者、マルク・オジェ。今までの人類学は「よそ」(すなわち、西ヨーロッパにとってのかつての植民地や今日の後進国のような遠い「よそ」)が研究対象だったのに対し、オジェはその興味関心を「身近な場所」に移した。「身近な場所」とは、ヨーロッパやフランス、ひいてはパリであり、本書はこのような「身近な場所」を中心に人類学的考察を展開した。中心となる論点は、近代における「場所」という概念に対置して、スーパーモダニティは数々の「非−場所」(空港や高速道路)を生み出し、そこはアイデンティティを構築することも、関係を結ぶことも、歴史をそなえることも定義することのできない空間であるが、そのような空間をどう思考するのかを探求していく。(担当・草乃)

5. 東浩紀+大山顕『ショッピングモールから考える―ユートピア・バックヤード・未来都市』
東浩紀+大山顕『ショッピングモールから考える―ユートピア・バックヤード・未来都市』(幻冬舎新書、2016年)

本書創刊号のなかで何度も問題になっている本である。ショッピングモールの乱立(と地元商店街の廃退)はしばしば、三浦展が提唱した「ファスト風土」的な論理(郊外の風景の均一化、コミュニティの衰退)で批判されてきた。これに対し東+大山はむしろショッピングモールを新たな公共圏、新たなコミュニティ生成の可能性の場所として評価する。これは、下で紹介されている毛利の『ストリートの思想』に対するポストモダン的カウンターとも言えるだろう。『ショッピングモールから考える』について私たちが興味を持ったのは、むしろファサードと内部の反転やバックヤードの不可視性といった構造的な論点であるが、ここでもう少し大雑把な要約をしておけば、東の議論は、一貫して消費者と市民あるいは消費行動と政治的議論を架橋する方策を探すものである(その方向性はすでに『動物化するポストモダン』にあるが、『一般意志2.0』でいっそうはっきりと提示される)。「啓蒙」ではなく「欲望」を通じた公共空間、対話を通じた人間的コミュニケーションではなく、同じアーキテクチャに動員された「動物」たちのコミュニケーションから立ち上がる公共性、という観点は——もちろん批判なしに受け入れられるものではないが——今なお必要なものである。とはいえ、ブレグジッドやトランプ政権誕生以降、ある意味では「欲望」や「動物性」(あるいは「情動」)のみが支配した感のある現在から見れば、こうしたある種の楽観主義にも限界があるように見える。「ゼロ年代」——むろんその可能性の中心はアーキテクチャ論であって、サブカル批評などではけっしてない——のあとで、私たちはいかに公共性を考えることができるだろうか。そのために必要なリアリティとは何なのだろうか。(担当・左藤)

6. 毛利嘉孝『ストリートの思想 転換期としての1990年代』
毛利嘉孝『ストリートの思想 転換期としての1990年代』(NHKブックス、2009年)

「ストリートの思想」、それは伝統的な政治・文化・思想の破綻以後の「今日の新しい対抗的な政治の可能性」である。本書は、70年代からゼロ年代にかけての政治・文化・思想の転換を辿りながら「ストリートの思想」を構想している。ストリートが単なる道路に、大学が単なる教育機関に切り詰められているように、いまや「国家」と「資本」によって開かれた場所が奪われつつある。そうして断片化され散在している、大学、自宅、職場、飲食店、ライブハウス、公園、駅を、横断しつなげ直し、公共性を取り戻すのが「ストリートの思想」だ。その方法のヒントが、メディア、インターネットの活用やサウンドデモなど、さまざまな実践の紹介につまっている。本書は、現在の閉塞状況を再考することで、その状況を突破し通り過ぎていくための道を示してくれている。(担当・古木)

7. アンリ・ルフェーヴル『都市への権利』
アンリ・ルフェーヴル『都市への権利』(ちくま学芸文庫、2011年〔原著1968年〕)

都市とは何か。68年革命の主要な舞台となったナンテール大学の社会学者は学生運動の渦中でそう問うた。都市は本質的に叛乱の性質を孕んでいるにもかかわらず、都市計画者によってそれは遮られてきた。抑圧されている「都市的なるもの」を奪還し、六月革命、パリコミューン、と都市に回帰し続ける叛乱の芽を蘇らせることが急務であるとルフェーヴルは主張する。「共産主義の幽霊がもはやヨーロッパを徘徊していないにしても、都市の亡霊、殺されて死んだものの遺恨、おそらくは悔恨が、古い幽霊にとってかわっている」。我々の眼前に広がる平板で退屈な都市の光景に「スペクトル分析」を行い、「都市的なるもの」の「幽霊」(specter)をそこに幻視すれば、都市革命まではあと一歩である。ルフェーヴルの都市論がいまや惑星規模にまで拡張されたとする「惑星都市理論」(planetary urbanization)などが現在も生まれ続けているように、本書は都市論の古典であるとともに、いまなお都市から政治的想像力を汲み上げるうえで源泉となる著作である。(担当・松田)

8. デヴィッド・ハーヴェイ『資本の<謎>』
デヴィッド・ハーヴェイ『資本の<謎>』(作品社、2012年〔原著2010年〕)

マルクスを継承する人文地理学者、デヴィッド・ハーヴェイによる著作。本書は、私たちの社会における「生きた血液」、資本の流れ(キャピタル・フロー)の分析に捧げられている。主流派の経済学モデルの複雑化が進む一方、資本の流れについての体系的理解が疎かになっているのではないか、というのがハーヴェイの主張である。とくにハーヴェイは、世界的な金融危機を引き起こしたサブプライム・ローンを、ほとんどの経済学者が予測できなかった点を非難している。サブプライム・ローンは、資本と空間の齟齬によって引き起こされた。流動性を求める資本の性質に対し、空間に根ざす固定的な不動産は、信用に大きく依存し、本質的に高いリスクを持つのだ。ハーヴェイは本書で、資本と空間のダイナミックな緊張関係を明らかにしている。(担当・安永)

9. マイケル・ベネディクト『サイバースペース』
マイケル・ベネディクト『サイバースペース』(NTT出版、1994年〔原著1991年〕)

建築家で都市論者であるマイケル・ベネディクトを中心に1991年に出版された論文集。サイバースペースに関する思考はSF小説で多く見られてきたが、本書は建築学者を中心に学者や研究者たちが本気でサイバースペースというテーマに取り組んだものとされる。本書に含まれている論文は、古代思想におけるサイバースペースの哲学的基礎、バーチャルリアリティにおける身体の関連性、サイバースペースの基本的なコミュニケーション原理、来たるべき建築の脱物質化、三次元へのグラフィック表現の論理、多人数参加型サイバースペースのための非中央集権的システムの設計、未来の職場に対するサイバースペースの影響などを取り上げている。(担当・草乃)

10. デリダ+スティグレール『テレビのエコーグラフィー』
デリダ+スティグレール『テレビのエコーグラフィー』(原広之訳、NTT出版、2005年〔原著1996年〕)

デリダ「人為時事性」、スティグレール「離散的イマージュ」、二人の対談の三つのテクストからなる本書の中心をなすのは、「アクチュアリティ」に対する批判的考察であり、この状況下における「出来事」の可能性である。たとえばハイデガーは近代的「技術」を先駆的に批判したが、技術的なものを疎んで「田舎」に隠居し思索にふけったこの哲学者とは異なり、デリダとスティグレールはある意味では軽薄なまでに技術を雄弁に語り、ときにはテレビ番組を批評するにまでいたる。この本書で最も「アクチュアル」なのはおそらく、「文化例外」(アメリカ的なテレビ番組あるいは映画産業の覇権に対して、フランス映画を守ろうとしたフランスの政策)をめぐる議論だろう。スティグレールはさしあたりアメリカ批判を優先するべきだとし、文化例外を留保付きで受け入れるが、デリダは文化例外に文化的ナショナリズムの匂いを嗅ぎ取り警戒しつつ、むしろ市場のなかで公共性を実現する努力をすべきだと主張する。この議論は結局のところ国家とグローバリズムのあいだのバランスをいかに取るべきか、という、現在も再考されるべき内容を含んでいる。最後にデリダの議論を紹介しておけば、デリダは「人為時事性(artefactualité)」なる造語——artefact(人工物)とactualité(時事性、現勢性、アクチュアリティ)のかばん語——によって、現在「アクチュアリティ」と呼ばれているものが、「リアル・タイム」を伝えるジャーナリズムによって操作されている事実を指摘する。ただしデリダは、それが「すべてがシミュラークルでしかない」とするような「新たな観念論」——今風にいえば「陰謀論」——に陥るのを慎重に避ける(おそらくはボードリヤールが念頭にある)。脱構築はこのような出来事の否認(出来事はすべて作られたものに過ぎない)に対抗し、私たちの予測を裏切る出来事の不意打ちをつねに肯定する。デリダは1993年、アメリカ型リベラリズムの勝利をことほぐ「歴史の終わり」(フクヤマ)に対抗し、あえて冷戦後にマルクス(の「亡霊」)を語ることで、来るべき変革を鮮やかに肯定してみせた。この時点で告知されていたように、デリダの後期思想は、もはやいっさいが合理化され予測可能な可能性の地平の中にあるとする「出来事の否認」に対する徹底した抵抗として特徴づけられるだろう。とはいえ、出来事がたしかに「メシア的」と呼ばれるにせよ、それは神の降臨のような救済として到来するとはかぎらず、つねに最悪のケースを伴いうる(到来者はつねに侵略者あるいは入植者の相貌を持ってもいるのである)。この意味で、ロシア−ウクライナ戦争や安倍元首相殺害も——むろん、歓迎できるものではまったくないが——それぞれ「出来事」の到来のひとつにほかならない。それでもなお出来事の到来による「革命」を歓待すること、そこからこそ思想を立ち上げること、ここに脱構築の粘り強い肯定の論理あるいは倫理があるに違いない。(担当・左藤)

11. ハンナ・アーレント『人間の条件』
ハンナ・アーレント『人間の条件』(ちくま学芸文庫、1994年〔原著1958年〕)

説明不要の現代の古典。1957年のソ連による世界初の人工衛星スプートニク1号の打ち上げの描写から始まる本書は、「今日の世界疎外〔world alienation〕、すなわち、地球から宇宙への飛行〔flight〕と世界から自己自身への逃亡〔flight〕という二重のフライト」を歴史的に分析するものである。世界疎外、それは私たちが存在するこの世界のリアリティの喪失だ。その背景となる現代世界の分析は、経済的なものによって私たちの人間らしさが侵蝕されていることを明らかにしている。そして、私たちが互いに見られ、聞かれることで世界のリアリティを実感する公的領域を私的領域と区別するアーレントの整理は、空間と公共性、政治、権力の問題を考える上での基本であり、それを受け入れるにせよ批判するにせよ、必読である。(担当・古木)

12. リチャード・セネット『公共性の喪失』
リチャード・セネット『公共性の喪失』(晶文社、1991年〔原著1977年〕)

社会学者のセネットが、アーレントの立場を引き継ぎながら、現代における公共性の喪失について論じた一冊。セネットによると、公的な領域に私的な「親密さ(インティマシー)」が侵食することで、現代では公的な生活が失われてしまった。この変遷をセネットは、18世紀の都市における公的な文化の形成を出発点として語る。そこでは、振る舞いのコードが作られる空間として、都市と劇場が重ね合わせられる。しかし19世紀においては、産業資本主義や世俗主義の台頭などによって、各々の個性が開示される社会が成り立った。かくのごとき社会はナルシシズムによって支配され、セネットいわく共通の利益の最大化を防ぐという点で「破壊的」である。政治家が私的生活の公開によって支持を集めるような現象が、いかにして生み出されてしまったかをセネットは歴史的に紐解く。(担当・安永)

13. ジョン・アーリ『モビリティーズ』
ジョン・アーリ『モビリティーズ』(作品社、2015年〔原著2007年〕)

電車に乗りながらメールを打ち、職場のオンライン会議に参加しつつ、合間をみながらタクシーとUber Eatsの手配をし帰路に着く。我々が何気なく行っている日常的な振る舞いを、すべてが流動的に流れつつ複雑なネットワークを構成してゆく「移動(mobility)」の観点から、総体的に捉え直すとどのような光景が広がるか。その途方もない試みの下、社会科学に「移動論的転回」(mobility turn)をもたらしたのが、ジョン・アーリと彼の代表作『モビリティーズ』である。アーリによれば、現代社会は人間関係、仕事、家庭、余暇などさまざまな営みを、「動きながら」(on the move)行われるものに変質させている。本書におけるアーリの主張はあくまでも「新しい社会科学のパラダイム」の構築に目的が据えられているが、「移動」を軸としたその日常生活の捉え直しは色々な局面で示唆に富む。(担当・松田)

14. 南後由和『ひとり空間の都市論』
南後由和『ひとり空間の都市論』(ちくま新書、2018年)

「ひとり空間」を切り口に、ジンメルやシカゴ学派を含めた古典的な都市論を紹介しつつ、住まい、飲食店・宿泊施設、モバイル・メディアという三つの軸を中心に、社会学と建築学の間で行き来しながら都市を解析した論作である。著者の問題意識として、都市にはどのような「ひとり空間」が存在しているのか、そのような空間で人はどのような経験をしているのか、なぜ都市において人々は「ひとり空間」を欲するのかなどが挙げられるが、その中でも、社会学も建築学も超えて、情報社会の進展がいかに「ひとり空間」に影響を与えているのかという問いについても丁寧に分析され、スマートフォンやSNSのみならず、シェアリングエコノミーとP2Pプラットフォームについても詳細に考察されている。(担当・草乃)

15. イーフー・トゥアン『空間の経験』
イーフー・トゥアン『空間の経験』(筑摩書房、1988年〔原著1977年〕)

エドワード・レルフの『場所の現象学』とともに、人文主義地理学を代表する著作。トゥアンは⼈間の「経験」に根ざした空間・場所論を展開する。この「経験」とは、精神や思考、感情の状態の状態を含む、⼈間を「内側」からみた諸事実である。空間を、私たちの「経験という連続体」の中で捉えるトゥアンのアプローチは、現象学的である。しかし本書は現象学者たちの哲学的な議論に依拠するわけではなく、むしろ⼈類学の知⾒などを⼤いに援⽤しながら、⼈間と空間の複層的関係を探っていく。子供が空間を学習するプロセスをはじめとして、人間の身体構造と空間の関係や、空間にまつわる人間の能力と知識、さらには神話や国家における空間の役割などが分析される。人間にとって自由を表す「空間」と、安全性を確保するための「場所」、この両者の弁証法の中でトゥアンの思考は展開される。(担当・安永)

16. 広末保『新編 悪場所の発想』
広末保『新編 悪場所の発想』(ちくま学芸文庫、2002年)

近世文学研究者の廣末保による一種の「民衆」の精神史である。廣末の出発点は、近松の人形浄瑠璃や歌舞伎などを「民衆の演劇・芸能」ということに対する疑問にある。定住的な民衆から排除され賤視された河原者集団によってこそ、それら民衆演劇がつくられたと考えるからだ。そして、そこに含まれる悪の力、賤視された人々が逆に定住民を精神的に侵犯しうることを論じていくのである。その力は遊行漂白民に由来し、彼らが遊郭や芝居町に代表される固定した場所に定着したときに生まれたのが「悪場所」だ。定住民と定住空間の外にある者とが接するその場所には、私たち定住民の秩序を組み変える可能性がある。本書は、浄瑠璃や歌舞伎、演劇など、近世のさまざまな芸能を論じた論文集でもあるが、今ここにある現実をそこから離れて見るためのユーモアに満ちた一冊となっている。(担当・古木)

17. 港千尋『風景論』
港千尋『風景論』(中央公論新社、2018年)

写真評論家/写真家による風景論であるが、まとまった論文というよりは散発的なエッセイの色合いが強く、写真家の目線——「カメラ・アイ」?——を通じた空間の問題が提起されている。風景から「地層」に訴える箇所などに見られる港のある種の「縄文的」想像力には疑問がなくはないものの、やはり写真に関係する記述は興味深い。港は(きわめて断片的ながら)スヴェトラーナ・アルパースに依拠しつつ、風景概念の成立を「描写」の観点から論じることで、「刻む技術」としての写真を論じている。この可能性をより拡張したものが、本書創刊号に所収された論考「地図の敷居をまたいで、」である。そちらもお読みいただければと思う。(担当・左藤)

18. 東浩紀『サイバースペースはなぜそう呼ばれるか+』
東浩紀『サイバースペースはなぜそう呼ばれるか+』(河出文庫、2011年)

「情報空間」はそもそも「ネットワーク」であり、本質的にいわば高速道路(海底ケーブル)や飛行機の航路(WiFi)のような、情報交通のネットワークであるにもかかわらず、1990年代でも、2020年代になった今でも、人々は情報ネットワークを「空間」として認識しようとする。なぜ私たちはサイバースペースを空間として見立てようとするのか。この問いについて、著者はフロイト、ラカン、ジジェクの理論をツールにオリジナルな議論を展開し、ウィリアム・ギブスンと比較しながら、フィリップ・K・ディックの著作に沿って検討していく。内容はかなり難解であるが、技術的な背景だけではなく、政治的・社会的背景や1960年代の文化的背景の分析も含まれており、サイバースペースを思考するにあたって不可欠な一冊であると考えられる。(担当・草乃)

19. 村上春樹『アフターダーク』
村上春樹『アフターダーク』(講談社、2004年)

東京(渋谷)と思われる夜の繁華街を舞台にした、村上春樹の中長篇小説。19才の女性が深夜のファミレスで読書をしている場面に始まり、彼女がバンドマン、ラブホテルの従業員、中国人売春婦といった都市の「夜」にまつわる人々と出会いながら成長してゆく一夜の冒険を描く。成長冒険譚という意味では2002年の前作『海辺のカフカ』にも近しいが、本作ではとりわけ形式的な実験が試みられている。「『アフターダーク』では、ほとんどシナリオ的な書き方をしました。そういうふうに「少し短めの長編」ではいつも自分なりの実験みたいなことをやっています」(村上春樹・川上美映子『みみずくは黄昏に飛びたつ』)。作家が述べる会話文を中心とした構成の他にも、「私たち」という奇妙な人称など、本作は実験的な手法を積極的に取り入れ、都心の夜の世界を映し出している。村上春樹という現代日本を代表する(していた)文学者が、同時代の日本の都市空間をどのように把握していたのかを知る上で興味深い作品である。(担当・松田)